患者さんの治療体験記

実際に当クリニックの治療を受けて復職された患者さんの治療体験記をご紹介します。

20歳代 会社員

私はクリニックに通うことが嫌でたまりませんでした。当時25歳。自分の未来は明るく、仕事も何もかもこれから始まるんだ!と思っていたときに、 双極性障害Ⅱ型であると診断されたからです。

自身に“障害”という文字がつくことに 耐えられなかったのです。「あなたの限界は・・・・・・

​50歳代 主婦

現在 51 歳主婦で夫、次女社会人、犬 1 匹と暮らしています。午後から 4 時間ほどパートで勤務しています。私の病気の始まりは 2 回の出産がきっかけでした。

20 代後半に長女も次女も切迫早産で数ヶ月前から入院しての出産という結構大変な出産経験でした。今までずっと働き続け・・・・・

​50歳代 会社員

会社での仕事ストレスから、うつとなり、休職と出社を繰り返し入院を 2 度繰り返すが状況は改善せず。その後、5 年間の休職が続き、主治医の治療方針に対して妻を初めとする家族の信頼がなくなり、会社に申し出て故郷である大阪へ休職のまま転勤する。

「うつ病」と診断され・・・・・

20歳代 会社員

私はクリニックに通うことが嫌でたまりませんでした。

当時25歳。自分の未来は明るく、仕事も何もかもこれから始まるんだ!と思っていたときに、 双極性障害Ⅱ型であると診断されたからです。

自身に“障害”という文字がつくことに 耐えられなかったのです。「あなたの限界はココなんですよ」と言われた気分でした。

そんなこと、誰にも何も言われていないのに。

今思えば、その飛躍した考えもうつ状態から来ているのだと分かります。

クリニックに通う前、思い返せばムチャな働き方をしていたと思いますが、当時はそれが当たり前で、 同僚に追いつくためには、仕事量でカバーするしかないと思っていました。 それ以上に、何よりも仕事が楽しく好きでした。

誰に何を強制されたわけでもなかった私は、 「自分の意志でセーブする」という感覚を持ちづらかったのです。それをする理由がありませんでした。

同じクリニックに通っている方のお話では、「周囲を気にしすぎてしまう・言い出せない・それによって やりすぎてしまう」という意見が多いイメージでしたが、私は自分の中で培ってきた向上心と 向き合うことが一番つらかったです。

「あなたの課題は休憩をすることです」と先生に言われたときのことを、よく覚えています。 25歳にもなって、何を言われているんだ私は?と思いました。 今までの私のことを何も知らないで、そんなことを言ってくれるな、とも思いました。

しかし今になって気付いていることは、私にとって≪休憩=生活のしやすさ≫だったのです。 それに気が付けたのは、細かい休憩を意識的にとるようになってからです。

なぜ、休憩をすることに実際に意識がいったのか。 それは「自分にとって何が一番大事か」を改めて見直すことができたからでした。 なぜ見直せたのか、それはクリニックの環境です。 一度立ち止まり、自身の向上心や自意識について、これから付き合っていく病気・生活について、 時間をかけて自問自答することを促してくれる病院と、許してくれる職場環境があったからです。

私にとって一番大事なことは、“やりたいことに挑戦し続けること”でした。 そのために必要だったのが、自分をコントロールすることです。

全てを諦めるのではなく、取捨選択を することでした。それに気付くのに、本当に時間がかかりました。それに気付きにくいことも、 この病気の特徴であるのかなと思います。

こうして、“考え方の方向を修正する”に切り替えてからが、私の治療のスタートでした。 休憩の仕方を教わり、身につけるため毎日クリニックに通っていたのだと思います。 文字にすると簡単そうですが、一言に「休憩」といっても、休ませる部分は細部に分かれています。

思考量の多さが課題だった私は、「何も考えないでいる」という感覚をつかむのに苦労しました。 そのために必要なことを教わり、実践し、ほかの患者さんの意見を聞き、また自分に還元する。 そうやって、自分の生きやすさに合う考え方や行動を知れるのが病院だと思います。

あんなに嫌だった病院も、今は“あのタイミングで行けてよかった場所”になりました。

 

私は約1年間、休業しクリニックに通い、そして復職して約2年が経ちました。 クリニックに毎日通っていたころのように、細かいことに目が行き届かなくなっていきます。 以前と同じような仕事が出来るわけではありません。ムチャをしても良くなったわけでもありません。

ただ、私に合わせた生活の送り方を見つけ、現在進行形で習得しようと模索しています。 そしてそれは、“双極性障害の私”に限ったことではない、みんな工夫をして暮らしているだけなのだと 思えるところまでやってきました。

自分に合う対処を探すのは、実はとても面白い行動です。 しかし、それには時間がかかる。支えが必要である。身を持って体験しました。

これを読む方がどういう状況かは分かりませんが、もし病院に行くことに対して躊躇しているので あれば。その感情が、恥・面倒くささ・恐怖など、自分の価値観にそぐわないからという理由だと したら、とても勿体ないです。

とりあえず、でいいので一度“認知行動療法”を体験していただきたいです。 薬だけじゃなく、自分の考え方と行動を変えることで生きやすくなる体験をしてほしいです。 外国に行くような感覚で、映画を見るような感覚で、新しい価値観を少し見てみるか、くらいの感覚で。 自分の価値観が変わることは、とても面白いです。入り口は何でもいいので、ぜひ体感してほしい。

こんなことお医者さんは言えないと思うので、個人の一体験談として書き記しておきます。

今回、この文章を書くにあたって、クリニックに通っていた頃つけていたノートの最後のページを 見ると、≪私がすべきことは、心と身体が疲れたら無理せず休むこと≫と書いてありました。

疲れたら休む、これが当たり前に出来る自分と社会に期待しています。  

 
 

50歳代 主婦

現在 51歳主婦で夫、次女社会人、犬 1 匹と暮らしています。午後から 4 時間ほどパートで勤務しています。


私の病気の始まりは 2 回の出産がきっかけでした。

20 代後半に長女も次女も切迫早産で数ヶ月前から入院しての出産という結構大変な出産経験でした。今までずっと働き続けてきた私にとって家での専業主婦は退屈で疎外感を感じていました。
出産後はなかなか疲れがとれず、血圧も高く、よく実家の世話になっていました。育児の疲れからか、なんとなく気分が落ち込むことが多く、最初は内科で精神安定剤を処方してもらったりしていました。
それから数年後 38 歳のときに主人の父親が亡くなり、慣れない主人の実家へ何度も通うことがありました。、忘れもしません葬儀から自宅に帰り次の日に気晴らしに行った公園からの帰宅後、ストーンと気分が落ちたのです。
そこからが長い病気の治療の始まりでした。内科から婦人科、そこから市内の心療内科へ紹介され、受診しました。うつ病と診断されました。
抗うつ薬や安定剤など当初は 4 種類の薬を飲んでいました。徐々に気分が落ち込むこともなくなり、テニスやバレーボール、ジャズダンスなど毎日充実して楽しく過ごしていました。今から思えば色々したいことが多くテンションが高かったように思います。
その間に疲れて体がしんどくなったり、動悸がしたり過呼吸にもなりました。30 代は体の不調が多かったです。
その後も予防でパキシルを処方され月 1 回病院へ通い毎日飲んでいました。それから 2 年後に私にとって人生で一番辛い忘れられない体験をすることになったのです。


今から 11年前 40 歳頃の出来ことです。長女が中 2,次女が小 5 の時でもうすぐ夏休みという頃でした。
その当時パートの勤務先変更、習っていたジャズダンスの発表会前で慌ただしく過ごしていました。パート先ではミスが多くなり、ダンスも覚えが悪かったです。頭が回らない感じでした。
ある日の朝、なんとなく不安感と落ち着きがなく主人に仕事を遅刻してもらい、いつもの心療内科へ受診しました。そこで薬が増やされました。
しかし自宅に帰宅しても良くはならず、眠れなくなり布団に寝ているのに道路の真ん中で寝ているように思えたり、自分の家だけ助かり後は人類滅亡してしまうみたいな妄想になったり、どんどんおかしくなり、再度心療内科へ、そこで注射を打たれました。その瞬間は付き添いで来ていた主人の眼球が飛び出たように見えました。体は硬直してしまい、失禁をしたり、訳の分からないことをしゃべり続けたりしていたようです。
主人の機転で市内の総合病院に救急でかかりました。そこから精神科へ入院になりました。1 ヶ月入院して徐々に回復していき、退院後も精神科へ通院していましたが、入院して仕事を辞めたことを後悔、また鬱状態になりました。

そこの病院で現在通院しているクリニックの主治医に出会い初めてうつ病ではなく、双極性障害と診断。それからは、気分安定薬リーマスと漢方薬での治療になりました。2012 年 43 歳でした。それ以降は、大きな鬱状態にはならず仕事にも復帰できました。
それから 3 年ほど主治医は変わりましたが、リーマスと漢方薬を飲み続けていました。日常には差し支えなかったのですが薬をこのまま続けて飲んでいくことによる体への負担の不安もあり、インターネットで私の病気の診断をしてくれた主治医が開業されていることを知り、転医を決めました。現在のクリニックです。


そこでは今までにかかった病院とは違い幼少期からの性格、生活環境、経歴、両親のことなど長時間にわたり聞き取りがありました。
その上でやはり双極性障害Ⅱ型と診断されました。

それから仕事の休みの日を利用して食事、運動、睡眠、認知などのプログラムを受けながら、日常の生活リズムを規則正しくしていき、その間リーマスを数ヶ月かけて減量していき、代わりに症状に合わせた漢方薬が処方されました。
現在リーマスをやめて 4 年になりますが大きな気分の変化はありません。
現在のクリニックで言われたこと、大きく気分が上がらなければ、大きく気分が落ちることはない。緩やかな気分の波になるようにしていく。
あれもしたい、これもしたいと過活動になる自分に健康な自分でいるためにはどういう行動をするかを常に心に置き、体が不調な時は今は休めと脳が伝えてると日々淡々と過ごすようにしています。
毎日の振り返りノート普通のスケジュール帳にはその日の体調、気分、予定、行動を記入しています。休憩を適度に取り、呼吸法をしたり毎日 30 分間だけウォーキングしたり。


たまにこの病気でない人が毎日のようにお出かけして楽しそうな日々を過ごしている様子を見たら正直羨ましく思うことがあります。
何で自分はこんな病気にかかってしまったのか悔やむこともあります。
しかしこうやって毎日仕事にも行くことができ、たまには友人と食事にも行け、家族と旅行もできている。あの何回も気分が落ち込み体が動けなくなるようなしんどいことはなくなり日常を過ごせているのは、気分が上がりすぎないように自分でコントロールしていくこ
とを今のクリニックで学んだからだと思っています。

まだ環境の変化、季節の変わり目、更年期という危ないと思うことがあります。そんな時は淡々と目の前のことに目を向け生活リズムを整えます。
クリニックで相談したりアドバイスをいただいたりもしています。
双極性障害はすっかり治る病気ではないけれど、健康な自分でいるためにはこの行動はよいか生活習慣は良いかを常に自分に問い生活していくことでコントロールできる病気だと思います。
うつ病ではなく双極性障害。同じようで治療方法が違う病気。入院という辛い経験はしましたが、今のクリニックに出会い診断してもらい気分安定薬を飲まずに予防出来ていることは大きな自信になりました。
これからも安易に考えず予防に努めていき健康な日々が送れるように努力していきたいと思っています。

50歳代 会社員

【東京での発症から大阪帰阪まで】
会社での仕事ストレスから、うつとなり、休職と出社を繰り返し入院を 2 度繰り返すが状況は改善せず。
その後、5 年間の休職が続き、主治医の治療方針に対して妻を初めとする家族の信頼がなくなり、会社に申し出て故郷である大阪へ休職のまま転勤する。


【東京での休職中に感じたこと】
「うつ病」と診断され、前の医師からの指導は薬を飲んでゆっくり休むこと、これだけが 5年以上続いていた。ただ、妻からは治るための努力をしてほしい、とよく言われていたが、では具体的に何をすればいいのかわからずに悶々とした日々を過ごしていた。

【今の主治医との出会い】
帰阪後、今の主治医の診察を受け、「うつ病ではない、双極性障害の 2 型だ。薬も違う」との診察を受け治療を開始。

今までの治療はなんであったのかとの思いもあった。その後、ストレスケア病棟での入院を経て病状が改善していくが、まだ不安定な状態が続く。

【薬での治療とプラスα】
不安定な状態が続くことから主治医から薬に加え、治療のための行動が示される。
 (1) 食事療法
 (2) 運動療法
 (3) 考え方を変える(認知行動療法)
その後、体力的な問題もあり 2 年かかって職場復帰した。


(1) 食事療法
「原始人(縄文人、弥生人)のような食生活をするように」との指導であった。

当時の人が何を食べて何を食べられなかったかを考えればいいわけである。

 

・主食は玄米のみ、小麦は禁止
この時以来、10 数年経った今でも家では玄米を主食としており(家族は別に白米)、復職後もしばらくはお昼の社食には弁当箱に玄米を入れて持ち込んでいた。
現在は、朝夕の家では玄米で、昼は社食の白米や小麦の麺類なども食べる。

・野菜を食べる
食べるようにしていても限界もあり、1 リットル入りの野菜ジュースをスーパーで買って会社に持ち込み、今も朝と昼休みに飲んでいる。(自販機のジュースなどは買わない)

1 リットルのジュースをだいたい 1 日半(3 日で 2 本)のペースで飲んでいる。

 

・白身の魚(青魚)はいいけれど赤身はダメ、鶏はいいけど、牛豚はダメ。当時は赤身の魚は捕れないわけで、淡水魚や近海の魚だけがいいことになる。鶏も同じ。

(2) 運動療法
「体(肉体)そのものが健康でなければ、病気はよくならない」「家、会社以外で自分の居場所を作り、3 か所以上の社会的な接点を作る」「健康をお金で買う」という指導でフィットネスクラブに入会、今でも続けている。
もっとも、最初の指導は毎日フィットネスに通って、ストレッチとサウナだけでいいという指導だけであった。(以降は「毎日、通いなさい」という指導だけであった)
休職中のこともあり、ヨガ教室のようなクラスに毎日参加、サウナに入って帰るという生活をしばらく続けていた。そのうちに少し体を動かそうかという気になり、ローラーの上を歩くマシンなどを始めるが 10 分が限界、というところからスタートした。
現在では、出社前にフィットネスクラブでサウナに入り、退社後、再びフィットネスに通い、週に 1,2 回の体幹トレーニング(自重トレーニング)、残りの日は有酸素運動を毎日行うまでに体力が向上し、帰阪当時と比べると体重は約 9kg 減少した。

(3) 考え方を変える(認知修正)
患者の側からすると、「病気になる前の、元の状態に戻る薬を処方してほしい」というのが率直な思いだと考える。腹痛や発熱ならば服薬でほとんどの場合、発病前の状態に戻れるだろうが、メンタルの場合はそれではダメということを自分で理解しないといけない。
この「理解する」というのが、「頭で知識として分かっている」だけという、実際には何も分かっていない状態で復職して再発することが自分であったと思う。
例えば、「自分はどうして病気になったのだろうか?あの時、どうすれば今のように病気にならずにすんだのだろうか?」などと、いくら考えても答えの出てこないことをいつまでも考えたりしていた。普通、胃が荒れた、胃が痛いという時に、「胃が弱っているから、もっと鍛えよう」などと更に飲み食いするなど、さらに胃を酷使したりしない。
ところが、メンタルという、臓器で考えると脳がくたびれている状態でも、平気で答えの出てこないことをいつまでも考えて脳を酷使する。考えることを止める、という単純なことが出来なくなる。この「考えることを止める」ということが、「頭では分かっている」状態から、「答えはない
から考えるのを、やーめた」と自分で実際にストップさせられるようになるのが、「考え方を変える」の一つではないだろうか。
ただ、この「考え方を変えれるようになる」方法が、誰もがこうすればいい方向に変われるというものではないため、人によっては「考え方を変えられるようになるためのステップ」に拒絶反応が起こしてしまい、結果中身の同じ元の自分に戻り、前と同じ状況下になると再発してしまうことに気づかないとどうにもならない。

(4) 薬物療法
デパケン、リーマス (エビリファイ 頓用) 2015 年 6 月まで。以降、漢方薬のみで経過。バルプロ酸ナトリウムや炭酸リチウムなどの気分安定剤と漢方が主体だった。アリピプラゾール水溶液を混合状態出現時に服用していたことがあった。趣味でバイクに乗る機会があるため、2015 年 7 月以降は現在に至るまで漢方薬のみとなっている。

 

40歳代 会社員

私は仕事の過労と長男の誕生による環境の変化にうまく順応できず30代半ばに職場の上司に勧められて心療内科を受診し、「抑うつ症」と診断され休職(X‐8年10月近医Kクリニック初診,X‐8年11月~X‐7年6月)することになりました。

その後も3回の復職と休職を繰り返しました。また、3回転院しましたがその都度「躁うつ病」など病名が変わり、睡眠薬や向精神薬を処方されました。感情の起伏が激しく家族にあたったりすることがありました。荒れた後は気分が落ち込むことがありました。希死念慮から自殺企図したこともありました。

自分の本当の病名は何なのか、精神薬は一生涯服用しなればならないのか思い悩む日々が続く中で、妻の友人が紹介してくれたのがボーボット・メディカル・クリニックでした。

X‐4年10月、初めて受診した時は、セカンド・オピニオンで過去の生い立ちをシートに記入し、その内容に基づき1時間以上のケースワーカーの問診が行われ、別日に2日間にわたり計5時間に及ぶ医師の診察を受けました。これは他のクリニックでは経験したことがありませんでした。

そして、その時に主治医が「精神的な病ではなく脳機能の障害である」「当院のプログラムに参加し、対処方法のアドバイスを受けて実践していく中で、睡眠薬や抗不安薬を服用しなくてもセルフコントロールできるようになる」と明言され、すがる思いで家族や職場の上司と相談した上、4回目の再休職をすることに至りました。

職場に提出した休職診断書に「双極性障害」「適応障害」と記入があり、プログラムを受けて間もなく自分はASD(自閉症スペクトラム)の特徴がある発達障害であることを認識しました。

受診して早速、処方変更が行われ、気分安定作用のあるクスリに切り替え、睡眠薬や抗不安薬の処方はなくなりましたが、長い間服用していた影響もあり離脱症状が出て、感情・気分のコントロールができず苦しい日々が続きました。

プログラムは月曜日から土曜日まで毎日あり、最初はコンディションが崩れて休むことが多かったです。焦り・不安・絶望感などの気持ちが入り混じって、気分の波が大きく日内変動することも頻繁にありました。

しかし、担当セラピストから不調が生じたときの対処法など教えてもらい実践していく中で少しずつ穏やかになっていきました。

プログラムでは主に、午前中は呼吸法の練習をした後に一日の過ごし方の記録と前日の振り返り、午後からはグループミーティングをメインに行っていました。他の人の意見を聞いて自分の不調が出た時の対処として参考になることが多くあり、とても貴重な時間を過ごすことができた、と復職して振り返った時に改めて感じています。

自分自身の特性、得手、不得手などをよく理解するきっかけとなりました。

ASDとしての特性に応じた職務復帰することが望ましく、環境調整も必要だったので、クリニックに通い始めてから復職(X-2年10月)するまでに約2年かかりましたが、復職してからは気分変動が生じても大きく体調を崩すことなく通勤しています。

今の職場では私自身の特徴である「コミュニケーションの苦手さ」「聴覚過敏」などをよく理解してもらえて、窓口担当ではなく自分が得意としている内部での入力作業を中心に行えるように配慮してくれています。産業医が精神科の医師であり、自分の特性をよく理解して配慮して頂けたことも幸運でした。家族、職場、産業医やクリニックとの繋がりは今後も必要です。

その中でも「自分の体のことをよく分かっているのは自分自身」だと認識するようにしています。

不調のサインに気付いた時に、プログラムでの対処を実践することで健康に過ごしていくことが大切だということをクリニックで学びました。
 

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ボーボット・メディカル・クリニック
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