患者さんの治療体験記
実際に当クリニックの治療を受けて復職された患者さんの治療体験記をご紹介します。
20歳代 会社員
私はクリニックに通うことが嫌でたまりませんでした。当時25歳。自分の未来は明るく、仕事も何もかもこれから始まるんだ!と思っていたときに、 双極性障害Ⅱ型であると診断されたからです。
自身に“障害”という文字がつくことに 耐えられなかったのです。「あなたの限界は・・・・・・
40歳代 会社員
私は仕事の過労と長男の誕生による環境の変化にうまく順応できず30代半ばに職場の上司に勧められて心療内科を受診し、「抑うつ症」と診断され休職(X‐8年10月近医Kクリニック初診,X‐8年11月~X‐7年6月)することになりました。その後も3回の復職と休職を繰り返しました・・・・・・・・・
50歳代 主婦
現在 51 歳主婦で夫、次女社会人、犬 1 匹と暮らしています。午後から 4 時間ほどパートで勤務しています。私の病気の始まりは 2 回の出産がきっかけでした。
20 代後半に長女も次女も切迫早産で数ヶ月前から入院しての出産という結構大変な出産経験でした。今までずっと働き続け・・・・・
20歳代 会社員
私はクリニックに通うことが嫌でたまりませんでした。
当時25歳。自分の未来は明るく、仕事も何もかもこれから始まるんだ!と思っていたときに、 双極性障害Ⅱ型であると診断されたからです。
自身に“障害”という文字がつくことに 耐えられなかったのです。「あなたの限界はココなんですよ」と言われた気分でした。
そんなこと、誰にも何も言われていないのに。
今思えば、その飛躍した考えもうつ状態から来ているのだと分かります。
クリニックに通う前、思い返せばムチャな働き方をしていたと思いますが、当時はそれが当たり前で、 同僚に追いつくためには、仕事量でカバーするしかないと思っていました。 それ以上に、何よりも仕事が楽しく好きでした。
誰に何を強制されたわけでもなかった私は、 「自分の意志でセーブする」という感覚を持ちづらかったのです。それをする理由がありませんでした。
同じクリニックに通っている方のお話では、「周囲を気にしすぎてしまう・言い出せない・それによって やりすぎてしまう」という意見が多いイメージでしたが、私は自分の中で培ってきた向上心と 向き合うことが一番つらかったです。
「あなたの課題は休憩をすることです」と先生に言われたときのことを、よく覚えています。 25歳にもなって、何を言われているんだ私は?と思いました。 今までの私のことを何も知らないで、そんなことを言ってくれるな、とも思いました。
しかし今になって気付いていることは、私にとって≪休憩=生活のしやすさ≫だったのです。 それに気が付けたのは、細かい休憩を意識的にとるようになってからです。
なぜ、休憩をすることに実際に意識がいったのか。 それは「自分にとって何が一番大事か」を改めて見直すことができたからでした。 なぜ見直せたのか、それはクリニックの環境です。 一度立ち止まり、自身の向上心や自意識について、これから付き合っていく病気・生活について、 時間をかけて自問自答することを促してくれる病院と、許してくれる職場環境があったからです。
私にとって一番大事なことは、“やりたいことに挑戦し続けること”でした。 そのために必要だったのが、自分をコントロールすることです。
全てを諦めるのではなく、取捨選択を することでした。それに気付くのに、本当に時間がかかりました。それに気付きにくいことも、 この病気の特徴であるのかなと思います。
こうして、“考え方の方向を修正する”に切り替えてからが、私の治療のスタートでした。 休憩の仕方を教わり、身につけるため毎日クリニックに通っていたのだと思います。 文字にすると簡単そうですが、一言に「休憩」といっても、休ませる部分は細部に分かれています。
思考量の多さが課題だった私は、「何も考えないでいる」という感覚をつかむのに苦労しました。 そのために必要なことを教わり、実践し、ほかの患者さんの意見を聞き、また自分に還元する。 そうやって、自分の生きやすさに合う考え方や行動を知れるのが病院だと思います。
あんなに嫌だった病院も、今は“あのタイミングで行けてよかった場所”になりました。
私は約1年間、休業しクリニックに通い、そして復職して約2年が経ちました。 クリニックに毎日通っていたころのように、細かいことに目が行き届かなくなっていきます。 以前と同じような仕事が出来るわけではありません。ムチャをしても良くなったわけでもありません。
ただ、私に合わせた生活の送り方を見つけ、現在進行形で習得しようと模索しています。 そしてそれは、“双極性障害の私”に限ったことではない、みんな工夫をして暮らしているだけなのだと 思えるところまでやってきました。
自分に合う対処を探すのは、実はとても面白い行動です。 しかし、それには時間がかかる。支えが必要である。身を持って体験しました。
これを読む方がどういう状況かは分かりませんが、もし病院に行くことに対して躊躇しているので あれば。その感情が、恥・面倒くささ・恐怖など、自分の価値観にそぐわないからという理由だと したら、とても勿体ないです。
とりあえず、でいいので一度“認知行動療法”を体験していただきたいです。 薬だけじゃなく、自分の考え方と行動を変えることで生きやすくなる体験をしてほしいです。 外国に行くような感覚で、映画を見るような感覚で、新しい価値観を少し見てみるか、くらいの感覚で。 自分の価値観が変わることは、とても面白いです。入り口は何でもいいので、ぜひ体感してほしい。
こんなことお医者さんは言えないと思うので、個人の一体験談として書き記しておきます。
今回、この文章を書くにあたって、クリニックに通っていた頃つけていたノートの最後のページを 見ると、≪私がすべきことは、心と身体が疲れたら無理せず休むこと≫と書いてありました。
疲れたら休む、これが当たり前に出来る自分と社会に期待しています。
50歳代 主婦
現在 51歳主婦で夫、次女社会人、犬 1 匹と暮らしています。午後から 4 時間ほどパートで勤務しています。
私の病気の始まりは 2 回の出産がきっかけでした。
20 代後半に長女も次女も切迫早産で数ヶ月前から入院しての出産という結構大変な出産経験でした。今までずっと働き続けてきた私にとって家での専業主婦は退屈で疎外感を感じていました。
出産後はなかなか疲れがとれず、血圧も高く、よく実家の世話になっていました。育児の疲れからか、なんとなく気分が落ち込むことが多く、最初は内科で精神安定剤を処方してもらったりしていました。
それから数年後 38 歳のときに主人の父親が亡くなり、慣れない主人の実家へ何度も通うことがありました。、忘れもしません葬儀から自宅に帰り次の日に気晴らしに行った公園からの帰宅後、ストーンと気分が落ちたのです。
そこからが長い病気の治療の始まりでした。内科から婦人科、そこから市内の心療内科へ紹介され、受診しました。うつ病と診断されました。
抗うつ薬や安定剤など当初は 4 種類の薬を飲んでいました。徐々に気分が落ち込むこともなくなり、テニスやバレーボール、ジャズダンスなど毎日充実して楽しく過ごしていました。今から思えば色々したいことが多くテンションが高かったように思います。
その間に疲れて体がしんどくなったり、動悸がしたり過呼吸にもなりました。30 代は体の不調が多かったです。
その後も予防でパキシルを処方され月 1 回病院へ通い毎日飲んでいました。それから 2 年後に私にとって人生で一番辛い忘れられない体験をすることになったのです。
今から 11年前 40 歳頃の出来ことです。長女が中 2,次女が小 5 の時でもうすぐ夏休みという頃でした。
その当時パートの勤務先変更、習っていたジャズダンスの発表会前で慌ただしく過ごしていました。パート先ではミスが多くなり、ダンスも覚えが悪かったです。頭が回らない感じでした。
ある日の朝、なんとなく不安感と落ち着きがなく主人に仕事を遅刻してもらい、いつもの心療内科へ受診しました。そこで薬が増やされました。
しかし自宅に帰宅しても良くはならず、眠れなくなり布団に寝ているのに道路の真ん中で寝ているように思えたり、自分の家だけ助かり後は人類滅亡してしまうみたいな妄想になったり、どんどんおかしくなり、再度心療内科へ、そこで注射を打たれました。その瞬間は付き添いで来ていた主人の眼球が飛び出たように見えました。体は硬直してしまい、失禁をしたり、訳の分からないことをしゃべり続けたりしていたようです。
主人の機転で市内の総合病院に救急でかかりました。そこから精神科へ入院になりました。1 ヶ月入院して徐々に回復していき、退院後も精神科へ通院していましたが、入院して仕事を辞めたことを後悔、また鬱状態になりました。
そこの病院で現在通院しているクリニックの主治医に出会い初めてうつ病ではなく、双極性障害と診断。それからは、気分安定薬リーマスと漢方薬での治療になりました。2012 年 43 歳でした。それ以降は、大きな鬱状態にはならず仕事にも復帰できました。
それから 3 年ほど主治医は変わりましたが、リーマスと漢方薬を飲み続けていました。日常には差し支えなかったのですが薬をこのまま続けて飲んでいくことによる体への負担の不安もあり、インターネットで私の病気の診断をしてくれた主治医が開業されていることを知り、転医を決めました。現在のクリニックです。
そこでは今までにかかった病院とは違い幼少期からの性格、生活環境、経歴、両親のことなど長時間にわたり聞き取りがありました。
その上でやはり双極性障害Ⅱ型と診断されました。
それから仕事の休みの日を利用して食事、運動、睡眠、認知などのプログラムを受けながら、日常の生活リズムを規則正しくしていき、その間リーマスを数ヶ月かけて減量していき、代わりに症状に合わせた漢方薬が処方されました。
現在リーマスをやめて 4 年になりますが大きな気分の変化はありません。
現在のクリニックで言われたこと、大きく気分が上がらなければ、大きく気分が落ちることはない。緩やかな気分の波になるようにしていく。
あれもしたい、これもしたいと過活動になる自分に健康な自分でいるためにはどういう行動をするかを常に心に置き、体が不調な時は今は休めと脳が伝えてると日々淡々と過ごすようにしています。
毎日の振り返りノート普通のスケジュール帳にはその日の体調、気分、予定、行動を記入しています。休憩を適度に取り、呼吸法をしたり毎日 30 分間だけウォーキングしたり。
たまにこの病気でない人が毎日のようにお出かけして楽しそうな日々を過ごしている様子を見たら正直羨ましく思うことがあります。
何で自分はこんな病気にかかってしまったのか悔やむこともあります。
しかしこうやって毎日仕事にも行くことができ、たまには友人と食事にも行け、家族と旅行もできている。あの何回も気分が落ち込み体が動けなくなるようなしんどいことはなくなり日常を過ごせているのは、気分が上がりすぎないように自分でコントロールしていくこ
とを今のクリニックで学んだからだと思っています。
まだ環境の変化、季節の変わり目、更年期という危ないと思うことがあります。そんな時は淡々と目の前のことに目を向け生活リズムを整えます。
クリニックで相談したりアドバイスをいただいたりもしています。
双極性障害はすっかり治る病気ではないけれど、健康な自分でいるためにはこの行動はよいか生活習慣は良いかを常に自分に問い生活していくことでコントロールできる病気だと思います。
うつ病ではなく双極性障害。同じようで治療方法が違う病気。入院という辛い経験はしましたが、今のクリニックに出会い診断してもらい気分安定薬を飲まずに予防出来ていることは大きな自信になりました。
これからも安易に考えず予防に努めていき健康な日々が送れるように努力していきたいと思っています。
50歳代 会社員
【東京での発症から大阪帰阪まで】
会社での仕事ストレスから、うつとなり、休職と出社を繰り返し入院を 2 度繰り返すが状況は改善せず。
その後、5 年間の休職が続き、主治医の治療方針に対して妻を初めとする家族の信頼がなくなり、会社に申し出て故郷である大阪へ休職のまま転勤する。
【東京での休職中に感じたこと】
「うつ病」と診断され、前の医師からの指導は薬を飲んでゆっくり休むこと、これだけが 5年以上続いていた。ただ、妻からは治るための努力をしてほしい、とよく言われていたが、では具体的に何をすればいいのかわからずに悶々とした日々を過ごしていた。
【今の主治医との出会い】
帰阪後、今の主治医の診察を受け、「うつ病ではない、双極性障害の 2 型だ。薬も違う」との診察を受け治療を開始。
今までの治療はなんであったのかとの思いもあった。その後、ストレスケア病棟での入院を経て病状が改善していくが、まだ不安定な状態が続く。
【薬での治療とプラスα】
不安定な状態が続くことから主治医から薬に加え、治療のための行動が示される。
(1) 食事療法
(2) 運動療法
(3) 考え方を変える(認知行動療法)
その後、体力的な問題もあり 2 年かかって職場復帰した。
(1) 食事療法
「原始人(縄文人、弥生人)のような食生活をするように」との指導であった。
当時の人が何を食べて何を食べられなかったかを考えればいいわけである。
・主食は玄米のみ、小麦は禁止
この時以来、10 数年経った今でも家では玄米を主食としており(家族は別に白米)、復職後もしばらくはお昼の社食には弁当箱に玄米を入れて持ち込んでいた。
現在は、朝夕の家では玄米で、昼は社食の白米や小麦の麺類なども食べる。
・野菜を食べる
食べるようにしていても限界もあり、1 リットル入りの野菜ジュースをスーパーで買って会社に持ち込み、今も朝と昼休みに飲んでいる。(自販機のジュースなどは買わない)
1 リットルのジュースをだいたい 1 日半(3 日で 2 本)のペースで飲んでいる。
・白身の魚(青魚)はいいけれど赤身はダメ、鶏はいいけど、牛豚はダメ。当時は赤身の魚は捕れないわけで、淡水魚や近海の魚だけがいいことになる。鶏も同じ。
(2) 運動療法
「体(肉体)そのものが健康でなければ、病気はよくならない」「家、会社以外で自分の居場所を作り、3 か所以上の社会的な接点を作る」「健康をお金で買う」という指導でフィットネスクラブに入会、今でも続けている。
もっとも、最初の指導は毎日フィットネスに通って、ストレッチとサウナだけでいいという指導だけであった。(以降は「毎日、通いなさい」という指導だけであった)
休職中のこともあり、ヨガ教室のようなクラスに毎日参加、サウナに入って帰るという生活をしばらく続けていた。そのうちに少し体を動かそうかという気になり、ローラーの上を歩くマシンなどを始めるが 10 分が限界、というところからスタートした。
現在では、出社前にフィットネスクラブでサウナに入り、退社後、再びフィットネスに通い、週に 1,2 回の体幹トレーニング(自重トレーニング)、残りの日は有酸素運動を毎日行うまでに体力が向上し、帰阪当時と比べると体重は約 9kg 減少した。
(3) 考え方を変える(認知修正)
患者の側からすると、「病気になる前の、元の状態に戻る薬を処方してほしい」というのが率直な思いだと考える。腹痛や発熱ならば服薬でほとんどの場合、発病前の状態に戻れるだろうが、メンタルの場合はそれではダメということを自分で理解しないといけない。
この「理解する」というのが、「頭で知識として分かっている」だけという、実際には何も分かっていない状態で復職して再発することが自分であったと思う。
例えば、「自分はどうして病気になったのだろうか?あの時、どうすれば今のように病気にならずにすんだのだろうか?」などと、いくら考えても答えの出てこないことをいつまでも考えたりしていた。普通、胃が荒れた、胃が痛いという時に、「胃が弱っているから、もっと鍛えよう」などと更に飲み食いするなど、さらに胃を酷使したりしない。
ところが、メンタルという、臓器で考えると脳がくたびれている状態でも、平気で答えの出てこないことをいつまでも考えて脳を酷使する。考えることを止める、という単純なことが出来なくなる。この「考えることを止める」ということが、「頭では分かっている」状態から、「答えはない
から考えるのを、やーめた」と自分で実際にストップさせられるようになるのが、「考え方を変える」の一つではないだろうか。
ただ、この「考え方を変えれるようになる」方法が、誰もがこうすればいい方向に変われるというものではないため、人によっては「考え方を変えられるようになるためのステップ」に拒絶反応が起こしてしまい、結果中身の同じ元の自分に戻り、前と同じ状況下になると再発してしまうことに気づかないとどうにもならない。
(4) 薬物療法
デパケン、リーマス (エビリファイ 頓用) 2015 年 6 月まで。以降、漢方薬のみで経過。バルプロ酸ナトリウムや炭酸リチウムなどの気分安定剤と漢方が主体だった。アリピプラゾール水溶液を混合状態出現時に服用していたことがあった。趣味でバイクに乗る機会があるため、2015 年 7 月以降は現在に至るまで漢方薬のみとなっている。
40歳代 会社員
私は仕事の過労と長男の誕生による環境の変化にうまく順応できず30代半ばに職場の上司に勧められて心療内科を受診し、「抑うつ症」と診断され休職(X‐8年10月近医Kクリニック初診,X‐8年11月~X‐7年6月)することになりました。
その後も3回の復職と休職を繰り返しました。また、3回転院しましたがその都度「躁うつ病」など病名が変わり、睡眠薬や向精神薬を処方されました。感情の起伏が激しく家族にあたったりすることがありました。荒れた後は気分が落ち込むことがありました。希死念慮から自殺企図したこともありました。
自分の本当の病名は何なのか、精神薬は一生涯服用しなればならないのか思い悩む日々が続く中で、妻の友人が紹介してくれたのがボーボット・メディカル・クリニックでした。
X‐4年10月、初めて受診した時は、セカンド・オピニオンで過去の生い立ちをシートに記入し、その内容に基づき1時間以上のケースワーカーの問診が行われ、別日に2日間にわたり計5時間に及ぶ医師の診察を受けました。これは他のクリニックでは経験したことがありませんでした。
そして、その時に主治医が「精神的な病ではなく脳機能の障害である」「当院のプログラムに参加し、対処方法のアドバイスを受けて実践していく中で、睡眠薬や抗不安薬を服用しなくてもセルフコントロールできるようになる」と明言され、すがる思いで家族や職場の上司と相談した上、4回目の再休職をすることに至りました。
職場に提出した休職診断書に「双極性障害」「適応障害」と記入があり、プログラムを受けて間もなく自分はASD(自閉症スペクトラム)の特徴がある発達障害であることを認識しました。
受診して早速、処方変更が行われ、気分安定作用のあるクスリに切り替え、睡眠薬や抗不安薬の処方はなくなりましたが、長い間服用していた影響もあり離脱症状が出て、感情・気分のコントロールができず苦しい日々が続きました。
プログラムは月曜日から土曜日まで毎日あり、最初はコンディションが崩れて休むことが多かったです。焦り・不安・絶望感などの気持ちが入り混じって、気分の波が大きく日内変動することも頻繁にありました。
しかし、担当セラピストから不調が生じたときの対処法など教えてもらい実践していく中で少しずつ穏やかになっていきました。
プログラムでは主に、午前中は呼吸法の練習をした後に一日の過ごし方の記録と前日の振り返り、午後からはグループミーティングをメインに行っていました。他の人の意見を聞いて自分の不調が出た時の対処として参考になることが多くあり、とても貴重な時間を過ごすことができた、と復職して振り返った時に改めて感じています。
自分自身の特性、得手、不得手などをよく理解するきっかけとなりました。
ASDとしての特性に応じた職務復帰することが望ましく、環境調整も必要だったので、クリニックに通い始めてから復職(X-2年10月)するまでに約2年かかりましたが、復職してからは気分変動が生じても大きく体調を崩すことなく通勤しています。
今の職場では私自身の特徴である「コミュニケーションの苦手さ」「聴覚過敏」などをよく理解してもらえて、窓口担当ではなく自分が得意としている内部での入力作業を中心に行えるように配慮してくれています。産業医が精神科の医師であり、自分の特性をよく理解して配慮して頂けたことも幸運でした。家族、職場、産業医やクリニックとの繋がりは今後も必要です。
その中でも「自分の体のことをよく分かっているのは自分自身」だと認識するようにしています。
不調のサインに気付いた時に、プログラムでの対処を実践することで健康に過ごしていくことが大切だということをクリニックで学びました。
50歳代 会社員
【職業生活の中の気分コントロールについて】
私は業務多忙や不眠が原因と思われる強い気分の落ち込みが数年間隔で発生していました。
精神科通院の際にはうつ病と診断され、抗うつ薬や睡眠薬などで数カ月をかけて回復していました。
しかし、回復後も早朝覚醒は継続的に続き、睡眠薬を服用していました。睡眠薬で十分な睡眠が確保できる時には、精神的にも体調的にも好調が続くことも多くありました。ところが、3 年前に会社の人事異動で急激に業務が多忙になると同時に、不安と焦りによる強い気分低下状態が続き、ついには会社から休職を勧められました。
休職はしたものの体調は回復せずに、大学病院に入院しました。入院中は薬物療法や電気痙攣療法などの治療を受け、一定の回復が確認されたので退院することになりました。
退院に際して病院からリワークに通う旨の提案があったので、一旦復職を見送りクリニックのプログラムに通う判断をしました。
通院したクリニックの初診では想定外の双極性障害 II との診断でした。クリニックに通いだした当時は退院に伴う軽躁状態が続いていたので、合成薬の使用は見送り様子を見ることとなりました。しかし、その後に再び不眠と気分の低下に見舞われ、プログラムを続けると同時にラミクタールによる治療を始めることになりました。
プログラムや面談では以下のような生活リズムを整えるための方法を教えて頂きました。
(1) 生活パターンの調整
不眠に対しては睡眠時間にこだわらずに、生活パターンを朝 5 時に起床する朝型への変更を勧めて頂きました。ラミクタールの効果と共に徐々に不眠が解消され、気分の低下から抜け出ることができました。朝型の生活パターンは現在も継続しています。
(2) 食事指導
朝食を和食に切り替え、野菜やたんぱく質を多く摂る食事に切り替え現在も継続しています。野菜は冷蔵庫に残っている野菜をみそ汁にして食べる方法など、細かなアイデアもクリニックで学んだことです。
(3) 認知の切り替え
認知行動療法を学びました。座学だけではなくグループワークをすることで、皆多かれ少なかれ同じような気の使い方をしていることに気が付き、職場に戻ってからも人目を気にすることが休職前より少なくなったと感じています。
「ハンコを押すように同じ生活リズを続けることが大切」と面談で頂いた言葉は今の自分の生活リズムを作る上で大切な言葉となっています。
復職の際には最初の 2 カ月間はプログラム参加と業務を繰り返すリハビリ期間を設けていただき順調に復職できました。復職後 2年7ヶ月経過しましたが大きな気分の落ち込みもなく仕事を継続しています。
復職後に実践している自己コントロールのポイントは以下の通りです。
(1) 自分の状態を公開している
休職前は病気のことを会社には知られたくない気持ちから直属の上司以外には病気のことは秘密にしていました。復職時にはクリニックからの診断書を会社・上司も見ていることから、自分の中で開き直れたことが焦りの気持ちが抑えられる理由になっているとも考えています。
(2) セルフチェックの継続
クリニックで教えて頂いた事を全て継続できているわけではありませんが、日々の振り返りの記録は継続しています。一日の自分の体調や気分を記録することで、前日の自分の状態を客観的に見ることができ、自分が軽躁や混合状態になっていないか、その時の不調の原因が気分的なものなのか、身体的なものなのか気が付けるようになりました。
また、記録を続けることで、その後の回復順序や時期などものパターンが読めることも焦りの気分を押さえるコントロール方法の一つになっていると思います。
(3) 定期的な休憩
午前と午後の休憩時間に社内(構内)をウォーキングし気分転換をしています。また、ウォーキングの後には簡単なストレッチをして、腰や背中の力を抜くように心がけています。自分の気分低下の原因の一つが腰痛であることも多いので、セルフチェック時の体調管理と併せて休憩時間を活用して体調維持を行っています。
(4) 頑張らずに出来ることをすればいい
復職直後に職場の先輩から教えて頂いた言葉です。焦りそうになった時、力が入りそうになった時は、この言葉を思い出すようにしています。
復職から 1 年後にはラミクタールも中止となり、今では趣味のバイクや友人との会食なども再開でき、生活の楽しみも少しずつ増えています。
今の自分に出来る双極性障害対処の柱は日々の振り返りによるセルフチェックとその結果を見ながらのコントロールです。過去と同じことを繰り返し、家族や職場に迷惑をかけないために、今の自分の状況を客観的に見極める習慣をこれからも継続できればと考えています。
50歳代 会社員
【失敗の本質について】
自分を客観視して冷静に分析することが、このボーボットで学んで、出来るようになったことである。
リハビリ出勤時に、休職前に自分がメインで担当していたテーマのメールを読み返してみた。
私が休職した後に他者が引き継ぎ、その後のやり取りをメールで確認していた時、その当時の自分のやり方は間違っていたことに気づくことができた。その当時は、自分が間違っているなど思いもせず一生懸命に案件を進めていたが、改めてメールを読み返してみると甚だ滑稽に感じた。
なぜその当時の自分は、このような立ち振る舞いしかできなかったのであろうか。端的に言うと、なぜ私は失敗をしたのか。その失敗に至った原因は何だったのか、何が問題だったのか。今改めて過去の自分の行動について検討する必要があると感じた。
「失敗は成功の元」ということわざの通り、失敗の経験を成功に導くことができるであろうか。過去の失敗から何を、どう学ぶのかが重要であると感じた。それが「失敗の本質」を見極めることであり、これも所謂自分探しの一環であると考える。
そこには、私の発達障害におけるADHDの特性が起因して起こっている可能性もある。また、そもそも能力の問題でロジックが間違っている可能性もある。固定概念、思い込みなどの偏った思考による弊害かもしれない。
この1年半、クリニックで学んできたことを応用すれば、本質にたどり着くことができるだろう。
通院初期にはあえて封をしていた自分の失敗の原因究明を今のこの時期だからこそやる必要があると思うし、出来るのであろう。
今回、クリニックでの体験をもとに改めて休職前の自分を客観視することで、その当時何が起きていたのか。そして、今回の不調に至った原因はなにかを突き止めることは重要である。
これは、自己批判ではなく、自己分析であり、自責ではなく、あくまでも客観的に分析することが肝心であり、余計な感情が入り込むと真実が見えなくなってしまうことに注意しなければならない。また、自分自身が苦手だと思っていた人が、実は休職中のフォローを親身に行ってもらっていたという事実を後から知り、自分の人に対する評価の未熟さを痛感した結果にもなった。
今までの自分は、自分自身の好き嫌いなどの自己中心的な判断基準(心の色眼鏡)に基づいて人を判断してきたことに対し反省しきりである。自分の感情を客観的にコントロールできれば別の見方ができ、結論も別な結論が導かれていたに違いなく、精神的にもこんなにも疲弊することもなかったと今改めて感じることである。
【過去の自分の救済】
発達障害なる概念は1963年にアメリカで法律用語として作られ、1970年代に日本に入ってきたとされているが、私の若い時(昭和50年代)には、市民生活には浸透していなかった。当然、私の幼少期、青年期である小中学校時代において、発達障害の概念の一つであるADHD特性は、日常生活や学校生活で顕著に表れていたと推測できる。学校のテストでも、自分の好きな科目である数学や理科は100点だが、興味がなかったり、苦手意識のある教科は、赤点に近い点数だったり教科ごとに大きなムラがあった。
その当時の学校教育は、平均を重んじられていた風潮の中、私のような子供は少し変わった子供として扱われ、さぼり癖があるとか、集中力が散漫でじっとしていられないとか、好きなことしかやらないわがままな性格だとか、悪いレッテルを貼られていたのを覚えている。
今回、クリニックに来院して発達障害の概念と、それに伴う社会への適応について学んでいくうちに、上記のような過去の出来事が、すべて自分の中で辻褄が合い、自分なりに解決がつき、長年、心の奥で靄がかかっていた状態が、一気に晴れてきた感覚を覚えた。
それは、このクリニックで障害の説明と自分探しをさせて頂いた結果だと思っている。クリニックで得た知識をもって、今改めて過去の自分を客観視するとき、そんな周りが言うほど劣等生でもなく、むしろ伸ばし方を工夫すれば十分のびしろがあった子供だったと確信できる。その検証(振り返り)が出来たのは、私の人生の中で非常に有意義であったと思っている。
そして今思うことは、もっと早く自分が、発達障害であることに気が付き、対処していればと悔やまれる。なぜなら、それは自分の特性を知ることで、本来の自分の能力に気づき、十分に発揮できていたはずであるからである。
発達障害であることは、人生にとってデメリットではないことは強調したい。自分の特性を正しく理解して対処できれば、社会にも問題なく適応でき、自分の才能を限りなく伸ばすことができ、むしろメリットであると確信している。
このボーボットでは、適切な治療とアドバイスや認知行動療法によるプログラムを受けられたので、このクリニックに出会えたことは、本当に幸運だったと思う。私もこれからの人生を、本来の自分を取り戻し何事にもチャレンジしていきたいと思う。
【自分再発見】
クリニックでの最終的な作業として、「自分の取扱説明書」を作製する。その際に、自分というものを注意深く、客観的に分析をしなければならない。私もこの作業を行ったが、一番苦労するのは、「自分とは何ぞや」ということである。
そこで、私はこの難問を解決するために、「人間が車だったら」という一つの仮想をたててみた。
一口に車といっても色々な種類がある。人もスポーツカータイプの人間もいれば、トラックタイプの人間もいる。いろんな種類の車があって、世の中成り立っている。新車もあれば壊れかけの車もある。事故でへこんでいる車もある。人間も同じようなものである。いろいろな人間がいる。いろいろな状態の人間がいる。
もし、両親や、世間が私のことを願望も含めて、スポーツカーとして扱ってきて、自分も何の疑いもなく「自分はスポーツカーだ」と思い込み生きてきたとする。しかし、大人になるにつれ、「高速道路で走るのがしんどい」し、「スピードも出ない」し、「私はスポーツカーとしては失格だ」、「スポーツカーとしての存在意義も価値もない」。「もう疲れた」と思うようになったある日、ボーボット修理工場へ連れて来られると、衝撃的な事実が分かった。修理工場のおじさんが言うには、実は、私はトラクターであると指摘してもらった。
今まで私は親や他人の言うことを聞いてスポーツカーとして生きてきたが、自分自身がトラクターであることに気づき、ようやく本当の姿の自分に出会えることができた。ボーボット修理工場で、トラクターとして生きていくすべを学んだあと、トラクターとして生きていくことになった。というたとえ話である。
人は、本来それぞれ持っている特性が違う。中には今の社会を生きていく際にその特性によって、外部と摩擦が生じ知らず知らずに自分が傷ついてしまうこともある。なぜ、自分の特性がわからないのか?それは、今までの学校教育や親の教育、世間の目は、画一的な平均的な人間を作ることに重点を置いていたためである。教師は生徒全員が、トヨタカローラに仕立て上げようとしていたのである。
そのなかで、スピード自慢や、力自慢などの特性は排除されてきたからではないだろうか。そのような教育で本来の自分らしい特性を封じ込まれ、歪んだ特性を個性とされて生きてきたのではないだろうか。その矛盾が現れたのが適応障害ではないだろうか⁽¹⁾。
本来の自分の特性を知ったうえで、社会とのかかわり方、自分が傷つかない方法、傷ついたときの対処方法などを学ぶことの大切さを教えてくれたのが、ボーボットであったと思う。
⁽¹⁾あくまでも本人の仮説である。